東京大学史料編纂所 教授 本郷 和人

 徳川家康の姪で養女、満天姫は、徳川家康の異父弟・下総関宿藩主松平康元の娘。家康の養女となり、慶長4(1599)年、11歳で福島正則の養嗣子福島正之に嫁いだ。正之は正則のおいで、男子のなかった正則の後継者だったが、その後に実子忠勝が生まれ、地位が不安定になった。やがて正之は乱行を理由に幽閉されて病死。満天姫は10歳ほど年下の忠勝の妻にされそうになったが、幕府が彼女と子ども(正之との子)を江戸に取り戻した。

 慶長18(1613)年、家康は満天姫を弘前藩主の津軽信枚に再嫁させた。ところが信枚にはすでに正室がいた。石田三成の娘である辰姫であった。信枚は辰姫を側室に直して津軽家の飛び地・上野の大館で生活させ、満天姫を正室に迎えた。しかし、彼は辰姫を忘れられず、参勤交代の際に必ず大館村に立ち寄っていた。その結果、辰姫は元和5(1619)年に男児を出産。満天姫も元和6(1620)年に男児を産んだ。

 正室と側室、二人の男児。信枚はなんと、辰姫の産んだ男の子を後継者にしたいと満天姫に懇願し、姫もこれを承諾した。辰姫は元和9(1623)年に没し、彼女の子はやがて次の藩主、津軽信義となる。満天姫、心中ではさぞや悔しかっただろう。

 ところがさらに、彼女の心をざわつかせる事件が発生した。満天姫は前夫・福島正之との間に男子を一人もうけていた。この子は姫が津軽家に嫁ぐ際、同家の家老・大道寺直英の養子となり、直秀を名乗っていた。寛永8(1631)年、夫の信枚が没したころ、先の婚家である福島家は、すっかり没落していた。そのため、直秀は幕府に働きかけ、自身は福島正則の孫であると称し、大名・福島家を再興するよう運動していた。

 満天姫は、この直秀の活動は津軽家の災いにしかならないと何度も忠告したが、直秀は聞き入れなかった。ついには自ら江戸へ上って、幕府要人に働きかけると言い出した。寛永13(1636)年、江戸に出発する前に母の居所へあいさつに訪れた直秀は、満天姫に勧められて酒を飲むうちに、苦しみ出して急死した。毒殺説が根強くささやかれている。

 この一件の真相は謎に包まれている。手を下したのは、直秀の養父、直英ともいう。でもいずれにせよ、姫が心を押し殺し、津軽家のために行動したことは間違いあるまい。

 寛永15(1638)年、満天姫は弘前で生涯を終えた。長勝寺(青森県弘前市)に霊屋(国の重要文化財)が残されている。津軽家は彼女の助けを得て、幕末までこの地で栄えた。